犯錯的,可能是上帝?
藍霄經典作品20週年紀念珍藏版
島田莊司2009「亞洲本格聯盟」出版選書
臺灣第一本翻譯至日本的長篇推理小說
推理評論家 玉田誠 專文推薦
「藍霄先生,當年,您也有份!」
推理小說家藍霄,收到一封詭異的讀者來信。
讀者表示,他只是在咖啡館和朋友喝著咖啡,卻在上個廁所回來之後,整個世界就天翻地覆──沒有人記得他,彷彿他不曾存在過。他為了證明自己的存在,寄信給藍霄,自白是七年前某宗姦殺案的凶手,並寫下這幾句話……
幾天後,警方找上了藍霄。因為他們發現一具身首異處的屍體,在死者遺物中也找到指名給藍霄的信。死者究竟是誰?為何會有這封信?
這一次,藍霄不再只是記錄事件的旁觀者。
中興大學文學院副院長 陳國偉
日本推理評論家 玉田誠
香港推理作家 譚劍
香港小說家 劉綺華
小說家 邱常婷
第二十一屆台灣推理作家協會徵文獎首獎得主 理想很遠
文字工作者 小云
IG說書人 偏食書癡仔仔
醫師作家 陳豐偉
名家一致推崇
《錯置體》可以說是台灣推理小說史上的劃時代之作,無論是充滿魅力的重層詭譎謎團、多元形式的敘事實驗、高度科學性的推理解謎、以及最終出人意表的真相表述,打破了本格推理的種種界限,展現出《錯置體》的前衛性以及世界性,也為21世紀的台灣本土推理,開啟了全新的書寫路線與可能。
──陳國偉(中興大學文學院副院長)
藍霄老師的作品讓人欲罷不能。作者以後設的手法,讓故事陷入重重迷霧,推理小說家同樣是疑犯,令人耳目一新。七年前一宗貌似姦殺的案件,延伸出七年後一宗又一宗的凶殺案,人的惡意、無法彌補的缺陷一一披露。一向以華麗謎團見稱的本格推理小說,竟同時探討人性的黑暗,實在難能可貴。
──劉綺華(香港小說家)
非常喜歡藍霄老師開頭引人入勝的寫法,中間透過不同角色的視角與幽默文筆,建構了細密嚴謹的謎團與手法。結尾的揭露則深具代表性,與現在的諸多社會議題緊密相合。我想,此刻正是回望二十年前的《錯置體》絕佳時機。
──邱常婷(小說家)
本格推理好像往往離不開凶手、死者、動機,並以偵探揭發真相指證壞人為大義;而「犯罪」和「犯錯」之間的隙間,則成了社會派主張的深層命題。《錯置體》舉出一個尖銳得跨越時代的設定:若犯案動機是生而為人的脆弱、加害者與生俱來就是受害者,犯錯的人,可能是上帝。
──理想很遠(第二十一屆台灣推理作家協會徵文獎首獎得主)
閱讀推理小說對我來說,除了享受懸疑離奇的故事與精心設計的謎團、關注作者想要傳達的議題之外,最大的樂趣就是追求解謎那一瞬間,發覺自己徹底被騙的驚愕感了。這部作品在二十年前便已成功辦到,更不簡單的是,即使再次重讀,仍能感受到跨越時間與空間限制,絲毫不顯過時的魅力。
──小云(文字工作者)
充滿懸疑感的敘述營造出詭譎又魔幻的氛圍,尋找真相的過程能滿足本格推理迷的喜好,當你以為心中的猜測開始接近核心的時候,卻又被新的線索給混淆,最終的結果讓人驚訝,同時完美地闡述了書名《錯置體》的含義,多重的詮釋方式令人讚嘆。
──偏食書癡仔仔(IG說書人)
讀過藍霄推理小說的讀者就知道,當秦博士出現,做了一些訪談與調查後,這時,先把書閤上,回想一下秦博士說了什麼,謎底就悄悄接近了。
開局離奇的信件,對應最後悲傷的錯置體。死亡,是許多人心底黯淡的期待。
──陳豐偉(醫師作家)
藍霄
1967年生,婦產科醫師,國內知名的不孕症治療專家。高中時,受到松本清張《砂之器》的啟蒙,開始閱讀推理小說並走上創作之路,在《推理》雜誌上的投稿屢獲好評。醫學院時,以土屋隆夫《不安的初啼》為契機,生殖內分泌與不孕症成為執業方向。由於工作關係一直想當覆面作家,但自認在網路時代有相當困難。因為喜歡推理小說,所以多年後又走上台前。
台灣推理俱樂部(台灣推理作家協會前身)四位發起人之一,並曾創立全台灣最大的推理資訊網站「blue的推理文學醫學院」,是早期推理迷重要集散地,不僅本身擁有充沛的創作能量,也致力於提攜後進,是台灣近代推理相當重要的催生者,曾出版《錯置體》、《光與影》、《天人菊殺人事件》,2022年再度執筆創作,接連出版《東方慢車謀殺案》、《關於高雄的殺意與哀愁》。
2024年重新出版經典作品《錯置體》20周年紀念版,本書亦曾於2009年以「島田莊司選 亞洲本格聯盟」系列在日本出版,是日本第一本翻譯出版的臺灣長篇推理小說。
熱情奔放的那一年
藍霄
二○○○年左右,我是醫學中心年輕的主治醫師,工作之餘,就是閱讀推理小說,或是與朋友談論推理小說的趣味。
網路打破了人際的藩籬,那時台灣正進入一個推理小說翻譯出版的蓬勃階段,這個蓬勃持續到現在,依然繽紛,這樣的繽紛,也看到各種形式內容的華文推理的小說紛呈。
《錯置體》有機會重新改版面世,不知不覺中,這本小說出版已經二十年了。
在SARS風暴來臨的二○○三那一年,對於台灣醫療公衛體系是莫大的衝擊夢魘,我也在風暴的中心,心靈的寄託還是閱讀推理小說。
二○○四年,是風暴歇息復甦的一年,我動念寫《錯置體》。那是自我創作動力熱情奔放的一年。
《錯置體》是一個很特殊的寫作經驗。
推理小說的創作,我想每個作者不太一樣,有人會構思章節才落筆,有人是大綱先行,骨肉後至……
我寫《錯置體》,就是一個發想的啟動,一路寫完,每寫完一章,就交給出版社的責編,是一種很特別的默契,是想像力的奔馳,思路的串連,形式的自然。
印象中落筆到完成,並沒有花多少時間,寫得很順暢,回顧來看,應該是日本本格解謎推理小說閱讀帶來的影響,也影響了當時寫作推理小說的走向。後來,有機會變成日本講談社「島田莊司選 亞洲本格聯盟」系列(島田荘司選 アジア本格リーグ)的首作,這是在寫《錯置體》的當刻,沒有預期到的榮幸。
佳多山大地在《通往謀殺與愉悅之路:一網打盡古今東西經典推理名作,學校修不到的推理小說通識課》,有趣地把《錯置體》與通識課開場白威廉.艾利希的《幻影女子》的副標當作呼應之作。
我還記得在往返鳥松工作醫院到旗山支援偏鄉院所間的十號快速道路,邊聽著歌手王菲的歌聲,腦袋靈感湧現的篇章。
這種寫作熱情的驅動,我覺得在我年紀變長之後,似乎已經找不到那年那時那種奔放的感覺,現在寫東西,多了審慎,多了思考,有點人生老成味的矜持。
兩年前,我開始再度拾筆寫〈血濃於水〉(收錄於《東方慢車謀殺案》),如同這些年來的醞釀扭捏,不同的是〈血濃於水〉也是一週寫完,後來三篇新的短篇小說落筆到寫完,也都沒有花多少時間。
隱隱約約,前面那種熱情奔放的感覺,似乎在筆觸的牽引之下找了回來。
重新寫作推理小說的前一年,也正好面臨新冠肺炎肆虐的年代,某種巧合呼應當年的創作情境。
《錯置體》改版前夕,我重新看了這本小說,其實對於當年的內容描寫自我驚豔,當年的奔放,可能就已經是完整的作品了,即便如此,這次改版,還是有做潤飾與輕微的章節更動。
感謝,當年的大塊出版編輯林毓瑜小姐與現在的博識出版栞小姐。
當然,把我個人寫作推理小說熱情牽引出來的許鈺祥(冬陽)先生,感謝他之餘,希望我可以繼續寫出推理小說。
台灣的推理小說。
故事的力量絕不會褪色
推理評論家 玉田誠
二〇〇九年に日本の講談社から『アジア本格リーグ』の一冊として刊行された本作が、こうして装いを新たに再び台湾で復刊されたことを、日本に紹介した訳者として嬉しく思う。本作『錯置體』は、長編作品として日本に紹介された、華文本格ミステリの嚆矢といえ、当時の紹介文には「台湾ミステリーの最前線をリードする、鬼才の異形の本格ミステリー」とあり、その扇情的な惹句の通り、本格ミステリの定石を大きく逸脱した野心的な作品である。
その作風は、怪奇と幻想と、そして推理が未分化のまま混沌としていた『宝石』『新青年』の探偵小説を彷彿とさせるとともに、本格ミステリの定石から大きく逸脱した試みは、いま読み返しても賛否両論を巻き起こすであろうと感じる。
物語は、語り手の藍霄が受け取った奇怪なメールによって幕をあげる。メールの差出人である王明億が訴えるその体験はまさに奇妙としかいいようがない。カフェで大学の同期たちと談笑しているさなか、彼がトイレから戻ってくると、周りの仲間全員が自分のことを忘れてしまっていたというのである。まるで席を立っていたほんの一瞬に、周りの世界はこともなく入れ替わってしまったとでもいうのか。まるで異次元に入り込んでしまったかのように――まさにホラーか、SFのような「幻想的な謎」は、読者の興味を惹きつけるに相応しい。
だが、ここで注目したいのは、そうした「幻想的な謎」そのものではなく、探偵である泰博士がこの謎を解き明かす端緒となる「気づき」であろう。彼は、この記述にある厳密さ、緻密さ、正確さに疑問を抱き、そこから犯人の残した足跡を辿って、真相ヘと近づいていく。厳密さ、緻密さ、正確さこそは、本格ミステリにおいて重要視されるべきものであるが、本作では、こうした本格ミステリの謎解きを成立させる構成要素そのものに疑義を呈しているのである。
こうした挑戦的な、そして実験的ともいえる本作の趣向は、作者の狙いなのか、どうか。本作の「第五章 秦博士的獨木橋」において、作者は、語り手である藍霄に、本格ミステリにおいて「最理想的解謎是在全書的最後一行,這樣才能得到最強的意外性!」と語らせている。では、本作は、果たしてこの「最理想的解謎是在全書的最後一行,這樣才能得到最強的意外性」を満たした物語であろうか。おそらく読者の多くは、本作の「最後一行」で明らかにされるある決定的な真相については、複雑な感慨を抱かれるのではないか。ここには、読者をあっと驚かせる良質なカタルシスは存在しない。むしろこの感覚は戸惑いや疑念に近いのではないか。胸がざわつくような、後味の悪さ。果たしてここで語られているものは真相なのか、どうか。探偵の明快な謎解きによって、謎という混沌は平時の安寧へと収束するはずが、ここでも本作は、本格ミステリの定石からはまったく外れていることに読者は気がつくであろう。
また本作をフーダニットの謎解きの視点から見ても、この真相は「最後一行」と同様、読者はやや煮え切らない読後感を抱かれるのではないか。意外な犯人には違いない。だが本作におけるフーダニットは、決定的な一人の犯人を炙り出すものではない。ある属性を隠蔽する目的で犯人が仕掛けた誤導への異様なまでの執着は、逆に犯人の足跡となり、探偵が真相へと近づくきっかけをつくってしまっている。この点は、先に述べた、厳密さ、緻密さ、正確さに対する姿勢と共通する。すなわち、本格ミステリが遵守していた「お約束」を軽やかに裏切り、読者の心中に戸惑いや疑念を惹起させる仕掛けこそが、本作の狙いであり、それがまた本作の日本版では「異形」という言葉によって紹介されたった所以であろう。
さて、『アジア本格リーグ』の一冊として、中国、韓国、インドなどの作品とともに日本で翻訳刊行された本作であるが、ここからは、この企画が生まれた経緯について語ってみたい。筆者がこの企画を提案した当時、自分の念頭にあったのは、一九八三年から一年をかけて刊行された集英社の『ラテンアメリカの文学』シリーズと、八〇年代から九〇年代前半に水声社から刊行された『アンデスの風』だった。海外の作品といえば欧米の作家のものしか読んだことのなかった筆者が、コルタサル(Julio Cortázar)、アドルフォ・ビオイ=カサーレス(Adolfo Bioy Casares)、サルバドール・エリソンド(Salvador Elizondo)といった、見知らぬ地の作家の、鮮烈にして異色なる物語を知るきっかけを与えてくれたのがこうした叢書であった。
八〇年代から九〇年代にかけて、日本の出版社にはまだ勢いがあり、未知の文学作品を広く紹介し得る余裕があった。『アジア本格リーグ』が企画された当時においても、八〇年代から続く挑戦的な気概はまだ出版界に残されていたということであろう。もちろん、冷言や林斯諺といった作家による野心的な作品が台湾で相次いで刊行され、いよいよ台湾ミステリが世界へ飛翔し得る実力を発揮し始めた時期と重なっていたことも幸いし、『アジア本格リーグ』はスタートした。果たしてこれが成功であったかどうか、――その点については未来の判断に委ねることにしよう。
ともあれ、いまや陳浩基の名前は、日本のミステリ読者の多くが知るところであり、彼の活躍の場である香港でいえば、冒業という恐るべき才能も生まれている。ミステリよりさらに幅広いジャンルにおいて活躍する薛西斯など、まだまだ日本に多く紹介される「べき」作家の作品は数あれど、日本の読者がそうした傑作群を読めるようになるかどうか――それは、物語の魅力や作家の実力とは関係なく、偏に日本の経済状況にかかっているといえる。日本における出版市場は縮小を続けており、データを見るにつけ、文化の興隆は経済に依存するという厳然たる事実に愕然とする(台湾はまた事情が違うであろうか)。
とはいえ、物語の力が色褪せることは決してない。
本作のように、過去作がこうして再び多くの読者の目にとまり、またそこから新たな物語が生み出されるであろうことを、筆者は願ってやまない。
***
本書曾於二〇〇九年入選日本講談社的「亞洲本格聯盟」系列,並發行日文版,今年臺灣即將推出新版,筆者很榮幸能有機會擔任舊版的譯者,將這本書介紹給日本的讀者們。《錯置體》這部作品是第一本進入日本市場的長篇華文本格派推理小說,當時的文案介紹它是「臺灣推理的領航者,鬼才作家獨樹一格的本格派推理小說」,而也正如這句引人注目的文案所云,這部野心之作大大跳脫本格派推理的既定模式。
作品有種詭譎神祕、超脫現實又結合推理的複雜風格,類似《寶石》、《新青年》的偵探小說,其大膽跳脫本格派推理既定模式的嘗試,如今再次讀來,仍然覺得評價恐怕很兩極吧。
小說是從故事敘述者藍霄收到一封奇怪的電子郵件揭開序幕。寄件人王明億在信中提到的遭遇只能以離奇來形容──他稱自己原本和大學同學們在咖啡店聊天,豈料他去了一趟洗手間回來,在場所有人竟忘了他是誰,彷彿他只離開座位一秒,整個世界就被人調了包,自己誤闖進異次元空間一樣──這種恐怖小說,或者說科幻小說的「非現實之謎」,正好適合挑起讀者的好奇心。
然而這裡應該注意的不是這類「非現實之謎」,而是偵探秦博士解謎的線索,亦即他的「發現」。他懷疑這段敘述內容是否嚴謹、縝密、正確,進而循著犯人留下的足跡逐步接近真相。「嚴謹、縝密、正確」正是本格派推理必須重視的部分,然在本作中,這類使本格派推理的解謎得以成立的構成要素,反而啟人疑竇。
本作這種挑釁的,也可說是實驗性質的意圖,是作者的用意嗎?在書中「第五章 秦博士的獨木橋」提到本格派推理時,作者安排敘述者藍霄說:「最理想的解謎是在全書的最後一行,這樣才能得到最強的意外性!」那麼本書的故事究竟是否滿足「最理想的解謎是在全書的最後一行,這樣才能得到最強的意外性」呢?恐怕多數讀者對於在本書「最後一行」揭露的決定性真相,都懷抱著複雜的感慨吧?讀者在這裡感受不到驚喜也沒有得到心靈淨化,讀完反而有種更類似困惑與猜疑的鬱悶感。這裡說的是真相嗎?偵探節奏明快地解謎,照理說應該解決了混沌的謎團,恢復如常的平靜,但讀者應該會發現,本作在這部分仍然完全偏離本格派推理的既定模式。
此外,從破解「誰是凶手?」之謎的角度來看本作也會發現,真相就跟「最後一行」一樣,讀者的感想也有些模稜兩可。犯人的身分確實令人意外,但本作的「誰是凶手?」並沒有抽絲剝繭出最關鍵的那位犯人。犯人異常執著於自己為了隱藏某屬性而精心安排的誤導中,反而導致犯人留下足跡,也創造出偵探靠近真相的契機,這種設定符合前面提過的「嚴謹、縝密、正確」,換言之它輕巧地背離了本格派推理遵守的「套路」,在讀者心中埋下困惑與猜疑,這才是本作的目的,也是本作的日文版文案用「獨樹一格」來形容的原因。
回歸正題,筆者接下來想談談本作當初與中國、韓國、印度等地的作品一同翻譯成日文版,入選「亞洲本格聯盟」系列的來龍去脈。當時提出這個企劃時,我想到的是集英社從一九八三年起耗時一年出版的「拉丁美洲文學」系列,以及水聲社在八〇年代到九〇年代前半發行的《安第斯之風》。提到海外作品只讀過歐美作家作品的筆者我,就是透過這類叢書,才有機會接觸到胡利奧‧科塔薩爾(Julio Cortázar,阿根廷作家,代表作《跳房子》)、阿道夫‧比奧伊‧卡薩雷斯(Adolfo Bioy Casares,阿根廷作家,代表作《莫雷爾的發明》)、薩爾瓦多‧埃利松多(Salvador Elizondo,墨西哥作家,代表作《法拉伯夫》)這些陌生國度的作家強烈又獨特的作品。
日本的出版社在八〇年代到九〇年代中期仍然衝勁十足,有餘力廣泛介紹未知的文學作品給日本國內的讀者,在規劃「亞洲本格聯盟」企劃當時,出版界也仍殘留著從八〇年代承接而來的挑戰氣魄,當然更值得慶幸的是,這段時期臺灣正好也陸續出版冷言、林斯諺等作家野心勃勃的作品,臺灣的推理小說開始發揮飛向世界的實力,「亞洲本格聯盟」也於焉展開。結果究竟是成是敗,這點就交由未來去評斷。
總之,現在日本的推理小說讀者多半都聽過陳浩基的名字,而在他活躍的香港也出現了才華過人的冒業。另外還有薛西斯等跨足推理小說以外更大領域的作家。雖然還有許多作家的作品「應該」要介紹給日本讀者,但日本讀者能否接受這類傑出作品,事實上與故事本身的魅力或作家實力無關,而是與日本的經濟狀況有關。日本的出版市場持續萎縮,看看統計數字就會驚訝發現,文化的興盛實則仰賴經濟發展(臺灣或許又是不一樣的情況吧)。
話雖如此,但是故事的力量絕不會褪色。
筆者期待舊作品都能夠像本作這樣,有機會再度出現在諸位讀者面前,從而催生出嶄新的故事。